日本のオーディオブック・・・高山正樹


オーディオブックとは、耳で聞く書物のことです。
欧米では、人気のコンテンツです。日本でもここ数年、時々耳にするようになりました。しかし、なかなか浸透していかないのは何故でしょう。

欧米のオーディオブックは書物の代用品。運転しながら本を読むことはできないけれど、聞くことならできます。これは忙しい人には有難い。 出来るビジネスマンは、会社への行き帰り、車を運転しながら、オーディオブックを聞いて勉強しているのです。
この点は日本でも同じです。日本でよく売れるオーディオブックとは、ビジネス関連のHow toものなのです。

しかし、問題は文学作品。欧米では新刊書籍の販売開始と同時にオーディオブックが発売されるというくらい定着している人気のコンテンツなのに、日本ではさっぱり。 それは、どうしてなんでしょうか。
ひとつには、日本の本が、欧米各国に比べて安いという事情があります。欧米の本はとても高い、オーディオブックの方が本より安いというのが普通なのです。
でも、それだけではありません。日本の読書好きの人たちは、たとえオーディオブックが本より安かったとしても、すぐにオーディオブックを購入するとは考えられません。 それはいったい何故なのでしょうか。

それは、日本では、書かれる言葉と語られる言葉がとっても違うからなのです。だから日本の小説は、読まれることを前提にして書かれているのです。
でも、日本の文学が、最初からそうだったわけではありません。万葉の時代、和歌は書かれたのではなく、詠まれたのです。 つまり、和歌を作ることは、声に出して詠むことを抜きにしてはあり得なかったのです。
それを変えたのは、漢字でした。漢字は「詠む」と「読む」を区別することを可能にしました。 元来、50音程度の組み合わせで言葉を構築しなければならなかった日本語は、豊富な語彙を獲得するのが難しい言語でした。 ところが、漢字というものを手に入れたことによって、同音異義語が可能となり、結果、極めて複雑な思考をも可能にしたのです。
しかしながら一方で、書かれる日本語は、生きた肉体から遠く離れていったのでした。いまだにお役所言葉などは、その最たるものです。 明治になって、夏目漱石など近代文学者の多くが、そのことに立ち向かって小説を書き始めました。 そして彼らの努力によって、一部の学識ある人々だけのものであった文学が、よりたくさんの人たちの楽しみとなったのです。
でも、完全に書き言葉と話し言葉の溝を埋めることはできませんでした。というより、完全に溝を埋める必要はなかったというべきでしょう。 話し言葉だけでは言い尽くせぬことを、書き言葉でなら表現できる、それが日本文学の素晴らしさであることもまた事実なのですから。

あれ? だとしたら、日本で近代文学をオーディオブックにするなんて意味がないのでは?

いいえ、そうではありません。書き言葉を《声》にして読む、文字と言葉、この異質なものが出会う場所にこそ、新しくさらに深い世界が現れる可能性があるのです。 もしかすると、それは肉体を失った文学に、再び肉体を取り戻させてあげるということなのかもしれません。 私たちは、文字と声の「違和感」を見据えて、その違和感をこそ武器にしたいと考えているのです。

確かに、これはとても困難な作業でもあるのです。なぜならば、例えば「読む」と「詠む」の違いを、音だけで伝えなければならないのですから。 でも、その難しさを乗り越えようとする苦しみは、ぞくぞくするような魅力を併せ持っています。

日本のオーディオブックは、欧米のような書物の代用品ではありません。
日本のオーディオブックには、文学を越えた表現の可能性がある、私たちはそのことを信じて疑いません。

予告!「沖縄とオーディオブック」

「文字」と「声」のいい意味での「違和感」を、もっとも感じさせてくれるのが沖縄!
このことについては、後日、ここでまたお話することにいたします。