おきなわおーでぃおぶっく
大城立裕の
「カクテル・パーティー」を読む
- 大城立裕 「カクテル・パーティー」
- 作: 大城立裕
- 朗読: 高山正樹
- フォーマット: CD ディスク数: 3
- 発売日: 2008年9月13日
- 価格(税込): \2,500
- レーベル: M.A.P.
- 収録時間
- disc1:(前章) 52'07"
- disc2:(後章T)71'55"
- disc3:(後章U)37'08" 大城立裕インタビュー(5'20")を含む
試聴
大城立裕が沖縄から発信した「カクテル・パーティー」は、40年間、問題作であり続けた。
それは「カクテル・パーティー」の問いに、今なお日本人の誰ひとりとして答えを出せずにいるというその現代性による。
しかし、それだけでは語れない魅力が「カクテル・パーティー」にはある。それはきっと、大城立裕の深層でこだまする重層的な声に関係している。
ここに、ひとりの無名の俳優、高山正樹が、深い尊敬を込めて、大城立裕の《声》を読む。
ここに、ひとりの無名の俳優、高山正樹が、深い尊敬を込めて、大城立裕の《声》を読む。
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もともと言語は、声で思いを伝えあうものだが、記録方法としての文字を獲得したところから、変質がはじまった。 日本の場合、原型である〈やまとことば〉を記録できる表音文字(かなもじ)を発明したこと、それと、表意文字としての漢字を音(おん)ごと併用し、 さらに数次にわたって外来語を取り入れてきたことで、結果的に世界一複雑な表記法を持った、文学向きの言語になった。 しかしこれは、本来の話し言葉とは、かけはなれたものである。この話し言葉と書き言葉の乖離が、日本語を考える時の大問題になっている。 話し言葉から見れば書き言葉が、不自然だということだが、読み書き重視の国語教育の中では、書き言葉が正規のものとされたのである。 そこを一致させるべきだろうと、二葉亭四迷も、森鴎外も、夏目漱石も考えた。しかし、今にいたるまで、「〜だ 〜である」は話し言葉ではない。 この文章にしてもそのまま声にしたのでは、誰も話しかけられているとは思わない。
そういう国で、書き言葉を声にする方法が、〈朗読〉として探られてきたのは、偶然ではない。 それは書き言葉の論理性を話し言葉の情感と活力で包むことで、書き言葉と話し言葉の溝を埋めようとする試みで、声の側からの言文一致運動といってよい。
しかし、そういう意識をきちんと持った〈朗読〉を聞いたことはあまりない。 よくあるのは、〈朗読〉らしい「読み方」を読んでいるというやつで、生きた言葉が聞こえてきたためしはない。
そんな中で高山君は、文学を文字で運ぶのではなく、声で運ぶことを考えた。同じ領域を走っているランナーがいないわけではないが、 高山君の優れているのは、いま述べたようなことを絶えず考え、自分の朗読を「これでいいはずはない」とチェックしていることだ。ともするとひとりよがりの朗読家が多い中で、 彼のような存在は稀有といってよい。
高山君の企画になるオーディオ・ブックが、新しいジャンルを開拓するであろうことを、ぼくは期待している。
さらにいうならば、その第一回に『カクテル・パーティー』を選んだことがある。大城立裕氏がこの一作をひっさげて、本土の文壇に登場した時、戦慄をもって迎えられた記憶がある。 タイトルの「カクテル・パーティー」は、実際にカクテル・パーティーであるだけでなく、言語のカクテル、民族のカクテル、国家のカクテル、支配者と被支配者のカクテル、 さまざまな政治的立場のカクテルでもあり、そのすべてが沖縄の象徴なのである。 その状況の中で、「お前は」一体何をしたのか、しなかったのか、それを問い詰める第二部の文体は、朗読の難易度からいえば、超A級である。 読後の、リアリティーある絶望感は、おざなりの連帯を唱える、本土の沖縄好きの似非文化人を打ちのめす。こんなむずかしい作品を、高山君はなぜ読もうとするのか、 それはきっと自分こそはその似非文化人ではあるまいとする、決意の表われだろう。
(劇作家・演出家・昭和音楽大学教授)
「カクテル・パーティー」を朗読することの困難・・・高山正樹
大城先生に読み方などいくつか質問をしたら、その答えに添えて、「カクテル・パーティー」について、こんなお言葉が返ってきた。
「この作品は朗読用に出来ていないとあらためて気づいた。」
そして中国の地名や戯曲形式の対話などは、適当に演出のテキストレジーのつもりで直してもよろしいというお許しも頂いた。
しかし、そうはいかない。どうしても変更が必要な箇所がひとつふたつあるが、基本的には原文に一切変更を加えずに、一人で読むと決めたのだから。困難なことは、最初から分かっている。
沖縄のオーディオブックを企画するにあたって、まずはなんとしても大城先生の「カクテル・パーティー」から始める。何故か、その理由については、とても簡単に説明できる話ではないので、 別の機会に譲るとして、ともかく「カクテル・パーティー」を朗読すると決めて、そして改めて読み返してみると、大城先生ではないが、殆ど絶望的な気分になった。
「私」「ミスター・ミラー」「孫氏」「小川」という、若干の年齢は違うにしても、太平洋戦争を生きた同じ世代の男性4人の会話を、いったいどのように読み分ければよいのか。 一度は、割り切ってラジオドラマ風に4人の俳優で読むことも考えたが、すぐにそれは違うと思い直した。
声を作って、4人を演じ分けることは、さほど難しい話ではない。しかし、この「カクテル・パーティー」は、その全編を「私=お前」の独白として読みたい、 「ミスター・ミラー」の言葉も、「小川」も「孫氏」のそれも、できれば「私=お前」が語る言葉として伝えたい、そのときはじめて、「私」と「お前」の違いが際立つことになる。
「カクテル・パーティー」が芥川賞を受賞した際の、諸先生方の選評が手元にある。
石川達三氏の「途中から第二人称にかわる必然性が納得できなかった」という意見に、いまさら賛同するものはいないだろうが、しかし当時の選者のだれも、 この二人称を積極的に評価する者がいないというのも不思議なことだ。沖縄の苦難を少しでも知る者にしてみれば、この二人称の「お前」という言葉が、 強烈なリアリティーをもって迫ってくるはずなのにと思うのだが。
また三島由紀夫氏が言う。「主人公が良心的で反省的でまじめで被害者で……というキャラクタリゼーションが気に入らぬ。このことが作品の説得力を弱めている」、 いかにも三島由紀夫氏らしい批評である。朗読者としては、主人公が悪人で、破天荒で、被害者意識とともに加害者意識も捨ててしまったような人間なら、 どんなにか読みやすかっただろうと思う。しかし問題は、個人の個性ではどうにもならない不条理な状況があるという現実なのだ。 だから、「カクテル・パーティー」の朗読者が表現すべきは、特異な個性ではないのである。
誰がしゃべっているのかを聞き手に正確に伝えることは必須だが、どこまで4人に差をつけて読むことが許されるのか、そのさじ加減をどうするか、多分、録音の最終段階まで迷っているに違いない。 なんとも、困難な作業である。
単なる朗読者なのに、余りに多くを語り過ぎた。偉そうなことを言っておいて、それに表現が追いつかなければ、何を言われるか分からない。 できることなら、誰か信頼おける俳優を探して朗読を依頼し、自分はディレクターに徹したかったのたが、この困難な仕事を、著名な俳優にお願いできるほど、残念ながらオーディオブックの世界は、 まだまだ認知されていない。 ならば、ともかく最初は、すべての批判をこの身で受けとめよう、それしかないと開き直ったのである。
ここまで語ってしまったのだから、最後に、もうひとつ気になっていることも書いてしまおう。それは、「お前」の告訴の決断を、最後には黙って受け入れた「娘」のことである。
再び石川達三氏の批評だが、その中に「娘自身の態度が書いていない」とある。
だが「カクテル・パーティー」が「私=お前」の独白である限り、「娘の態度が書いていない」ことに特に不満はない。しかし本当に娘のことが書かれていないのだろうか。 「カクテル・パーティー」は、やがてやってくるであろう娘の苦しみを知らぬ「お前」を、もうひとつの目が見つめているところで終わるのだが、 そこに、全てに対して不寛容になることに決めた「お前」を、強烈に逆照射する健気な「娘」の姿を、読者は発見するのだ。全てを受け入れ、全てを許している無言の「娘」。 もしかすると、この「娘」こそ、「沖縄」の、もうひとつの、重要な実相なのではないだろうかと、僕はひどく懐かしく思うのである。
ならば、はたして「私」を「お前」と呼ぶものは、いったい何者なのであろうか。
それは大城立裕の《声》なのか、あるいは・・・
大城先生に伺えば、気楽にお答えいただけるのかもしれない。しかし、このことは聞かずに、録音の時を迎えようと思う。これ以上悩むと、きっと、手も足も出なくなるに違いない。
(2008/8/3)
「カクテル・パーティー」は前章と後章に分かれ、前章は「私」を主人公とする一人称の形態で進行するが、後章では「お前」と二人称で呼ばれることになる。
本土復帰前の沖縄。主人公の「私」は、米軍基地内のカクテル・パーティーに招かれる。 中国人弁護士の「孫」、内地の新聞記者「小川」、そして沖縄人の「私」は、パーティーの主催者であるアメリカ人の「ミラー」と、中国語会話のグループを作っていた。 その関係で、「私」はパーティーに招かれたのだ。彼らと中国語で沖縄文化論などを交わしながら、「私」は、選ばれた「沖縄人」として、基地の中でのパーティーを楽しんでいた。
ちょうどその頃、M岬では、主人公の娘の身の上に、事件が起きていた。
米兵「ロバート・ハリス」に暴行された娘は、彼を崖下に突き落とし、大けがを負わせ逮捕されてしまう。娘が裁かれることは恐れない。 しかし「ロバート・ハリス」もまた裁かれなければならないはずだ。 まずは娘の裁判に「ロバート・ハリス」を証人として出廷させるため、「お前」は「ミラー」や「孫」や「小川」の友情を信じて、協力を得ようとするのだが。
やがて「カクテル・パーティー」の、「親善の論理」の「欺瞞」が暴かれていくことになる。